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    いる初対面の病人にいきなりエウリビデスの話する人ちょっといないわよ」

    「お父さんの遺影に向って股広げる娘だってちょっといない」と僕は言った。

    緑はくすくす笑ってから仏壇の鐘をちーんと鳴らした。「お父さん、おやすみ。私たちこれから楽しくやるから、安心して寝なさい。もう苦しくないでしょもう死んじゃったんだもん、苦しくないわよね。もし今も苦しかったら神様に文句言いなさいね。これじゃちょっとひどすぎるじゃないかって。天国でお母さんと会ってしっぽりやってなさい。おしっこの世話するときおちんちん見たけど、なかなか立派だったわよ。だから頑張るのよ。おやすみ」

    我々交代で風呂に入り、パジャマに着がえた。僕は彼女の父親が少しだけ使った新品同様のパジャマを借りた。いくぶん小さくはあったけれど、何もないよりはましだった。緑は仏壇のある部屋に客用の布団を敷いてくれた。

    「仏壇の前だけど怖くない」と緑は訊いた。

    「怖かないよ。何も悪いことしてないもの」僕は笑って言った。

    「でも私が眠るまでそばにいて抱いてくれるわよね」

    「いいよ」

    僕は緑の小さなベッドの端っこで何度も下に転げ落ちそうになりながら、ずっと彼女の体を抱いていた。緑は僕の胸に鼻を押しつけ、僕の腰に手を置いていた。僕は右手を彼女の背中にまわし、左手でベッドの枠をつかんで落っこちないように体を支えていた。性的に高揚する環境とはとてもいえない。僕の鼻先に緑の頭があって、その短くカットされた髪がときどき僕の鼻をむずむずさせた。

    「ねえ、ねえ、ねえ、何か言ってよ」と緑が僕の胸に顔を埋めたまま言った。

    「どんなこと」

    「なんだっていいわよ。私が気持よくなるようなこと」

    「すごく可愛いよ」

    「ミドリ」と彼女は言った。「名前をつけて言って」

    「すごく可愛いよ、ミドリ」と僕は言いなおした。

    「すごくってどれくらい」

    「山が崩れて海が干上がるくらい可愛い」

    緑は顔を上げて僕を見た。「あなたって表現がユニークねえ」

    「君にそう言われると心が和むね」と僕は笑って言った。

    「もっと素敵なこと言って」

    「君が大好きよ、ミドリ」

    「どれくらい好き」

    「春の熊くらい好きだよ」

    「春の熊」と緑はまた頭を上げた。「それ何よ、春の熊って」

    「春の野原を君が一人で歩いているとね、向うからビロードみないな毛並みの目のくりっとした可愛い子熊がやってくるんだ。そして君にこう言うんだよ。今日は、お嬢さん、僕と一緒に転がりっこしませんかって言うんだ。そして君と子熊で抱きあってクローバーの茂った丘の斜面をころころと転がって一日中遊ぶんだ。そういうのって素敵だろ」

    「すごく素敵」

    「それくらい君のことが好きだ」

    緑は僕の胸にしっかり抱きついた。「最高」と彼女は言った。「そんなに好きなら私の言うことなんでも聞いてくれるわよね怒らないわよね」

    「もちろん」

    「それで、私のことずっと大事にしてくれるわよね」

    「もちろん」と僕は言った。そして彼女の短くてやわらかい小さな男の子のような髪を撫でた。「大丈夫、心配ないよ。何もかもうまくいくさ」

    「でも怖いのよ、私」と緑は言った。

    僕は彼女の肩をそっと抱いていたが、そのうちに肩が規則的に上下しはじめ、寝息も聞こえてきたので、静かに緑のベッドを抜け出し、台所に行ってビールを一本飲んだ。まったく眠くはなかったので何か本でも読もうと思ったが、見まわしたところ本らしきものは一冊として見あたらなかった。緑の部屋に行って本棚の本を何か借りようかとも思ったがばたばたとして彼女を起こしたくなかったのでやめた。

    しばらくぼんやりとビールを飲んでいるうちに、そうだ、ここは書店なのだ、と僕は思った。僕は下に下りて店の電灯を点け、文庫本の棚を探してみた。読みたいと思うようなものは少なく、その大半は既に読んだことのあるものだった。しかしとにかく何か読むものは必要だったので、長いあいだ売れ残っていたらしく背表紙の変色したヘルマンヘッセの車輪の下を選び、その分の金をレジスターのわきに置いた。少くともこれで小林書店の在庫は少し減ったことになる。

    僕はビールを飲みながら、台所のテーブルに向って車輪の下を読みつづけた。最初に車輪の下を読んだのは中学校に入った年だった。そしてそれから八年後に、僕は女の子の家の台所で真夜中に死んだ父親の着ていたサイズの小さいパジャマを着て同じ本を読んでいるわけだ。なんだか不思議なものだなと僕は思った。もしこういう状況に置かれなかったら、僕は車輪の下なんてまず読みかえさなかっただろう。

    でも車輪の下はいささか古臭いところはあるにせよ、悪くない小説だった。僕はしんとしずまりかえった深夜の台所で、けっこう楽しくその小説を一行一行ゆっくりと読みつづけた。棚にはほこりをかぶったブラディーが一本あったので、それを少しコーヒーカップに注いで飲んだ。ブラディーは体を温めてくれたが、眠気の方はさっぱり訪ねてはくれなかった。

    三時前にそっと緑の様子を見に行ってみたが、彼女はずいぶん疲れていたらしくぐっすりと眠りこんでいた。窓の外に立った商店街の街灯の光が部屋の中を月光のようにほんのりと白く照らしていて、その光に背を向けるような格好で彼女は眠っていた。緑の体はまるで凍りついたみたいに身じろぎひとつしなかった。耳を近づけると寝息が聞こえるだけだった。父親そっくりの眠り方だなと僕は思った。

    ベッドのわきには旅行鞄がそのまま置かれ、白いコートが椅子の背にかけてあった。机の上はきちんと整理され、その前の壁にはスヌーピーのカレンダーがかかっていた。僕は窓のカーテンを少し開けて、人気のない商店街を見下ろした。どの店もシャッターを閉ざし、酒屋の前に並んだ自動販売機だけが身をすくめるようにしてじっと夜明けを待っていた。長距離トラックのタイヤのうなりがときおり重々しくあたりの空気を震わせていた。僕は台所に戻ってブラディーをもう一杯飲み、そして車輪の下を読みつづけた。

    その本を読み終えたとき、空はもう明るくなりはじめていた。僕はお湯をわかしてインスタントコーヒーを飲み、テーブルの上にあったメモ用紙にボールペンで手紙を書いた。ブラディーをいくらかもらった、車輪の下を買った、夜が明けたので帰る、さよなら、と僕は書いた。そして少し迷ってから、「眠っているときの君はとても可愛い」と書いた。それから僕はコーヒーカップを洗い、台所の電灯を消し、階段を下りてそっと静かにシャッターを上げて外に出た。近所の人に見られて不審に思われるんじゃないかと心配したが、朝の六時前にはまだ誰も通りを歩いてはいなかった。例によって鴉が屋根の上にとまってあなりを睥睨しているだけだった。僕は緑の部屋の淡いピンクのカーテンのかかった窓を少し見上げてから都電の駅まで歩き、終点で降りて、そこから寮まで歩いた。朝食を食べさせる定食屋が開いていたので、そこであたたかいごはんと味噌汁と菜の漬けものと玉子焼きを食べた。そして寮の裏手にまわって一階の永沢さんの部屋の窓を小さくノックした。永沢さんはすぐに窓を開けてくれ、僕はそこから彼の部屋に入った。

    「コーヒーでも飲むか」と彼は言ったが、いらないと僕は断った。そして礼を言って自分の部屋の引き上げ、歯をみがきズボンを脱いでから布団の中にもぐりこんでしっかりと目を閉じた。やがて夢のない、重い鉛の扉のような眠りがやってきた。

    *

    僕は毎週直子に手紙を書き、直子からも何通か手紙が来た。それほど長い手紙ではなかった。十一月になってだんだん朝夕が寒くなってきたと手紙にはあった。

    「あなたが東京に帰っていなくなってしまったのと秋が深まったのが同時だったので、体の中にぽっかり穴をあいてしまったような気分になったのはあなたのいないせいなのかそれとも季節のもたらすものなのか、しばらくわかりませんでした。レイコさんとよくあなたの話をします。彼女からもあなたにくれぐれもよろしくということです。レイコさんは相変わらず私にとても親切にしてくれます。もし彼女がいなかったら、私はたぶんここの生活に耐えられなかったと思います。淋しくなると私は泣きます。泣けるのは良いことだとレイコさんは言います。でも淋しいというのは本当に辛いものです。私が淋しがっていると、夜に闇の中からいろんな人が話しかけてきます。夜の樹々が風でさわさわと鳴るように、いろんな人が私に向って話しかけてくるのです。キズキ君やお姉さんと、そんな風にしてよくお話をします。あの人たちもやはり淋しがって、話し相手を求めているのです。

    ときどきそんな淋しい辛い夜に、あなたの手紙を読みかえします。外から入ってくる多くのものは私の頭を混乱させますが、ワタナベ君の書いてきてくれるあなたのまわりの世界の出来事は私をとてもホッとさせてくれます。不思議ですね。どうしてでしょう。だから私も何度も読みかえし、レイコさんも同じように何度か読みます。そしてその内容について二人で話しあったりします。ミドリさんという人のお父さんのことを書いた部分なんて私とても好きです。私たちは週に一度やってくるあなたの手紙を数少ない娯楽のひとつとして――手紙は娯楽なのです、ここでは――楽しみにしています。

    私もなるべく暇をみつけて手紙を書くように心懸けてはいるのですが、便箋を前にするといつもいつも私の気持は沈みこんでしまいます。この手紙も力をふりしぼって書いています。返事を書かなくちゃいけないとレイコさんに叱られたからです。でも誤解しないで下さい。私はワタナベ君に対して話したいことや伝えたいことがいっぱいあるのです。ただそれをうまく文章にすることができないのです。だから私には手紙を書くのが辛いのです。

    ミドリさんというのはとても面白そうな人ですね。この手紙を読んで彼女はあなたのことを好きなんじゃないかという気がしてレイコさんにそう言ったら、あたり前じゃない、私だってワタナベ君のこと好きよということでした。私たちは毎日キノコをとったり栗を拾ったりして食べています。栗ごはん、松茸ごはんというのがずっとつづいていますが、おいしくて食べ飽きません。しかしレイコさんは相変わらず小食で煙草ばかり吸いつづけています。鳥もウサギも元気です。さよなら」

    *

    僕の二十回目の誕生日の三日あとに直子から僕あての小包みが送られてきた。中には葡萄色の丸首のセーターと手紙が入っていた。

    「お誕生日おめでとう」と直子は書いていた。「あなたの二十歳が幸せなものであることを祈っています。私の二十歳はなんだかひどいもののまま終ってしまいそうだけれど、あなたが私のぶんもあわせたくらい幸せになってくれると嬉しいです。これ本当よ。このセーターは私とレイコさんが半分ずつ編みました。もし私一人でやっていたら、来年のバレンタインデーまでかかったでしょう。上手い方の半分が彼女で下手な方の半分が私です。レイコさんという人は何をやらせても上手い人で、彼女を見ていると時々私はつくづく自分が嫌になってしまいます。だって私には人に自慢できることなんて何もないだもの。さようなら。お元気で」

    レイコさんからの短いメッセージも入っていた。

    「元気あなたにとって直子は至福の如き存在かもしれませんが、私にとってはただの手先の不器用な女の子にすぎません。でもまあなんとか間にあうようにセーターは仕上げました。どう、素敵でしょう色とかたちは二人で決めました。誕生日おめでとう」

    十

    一九六九年という年は、僕にどうしようもないぬかるみを思い起こさせる。一歩足を動かすたびに靴がすっぽり脱げてしまいそうな深く重いねばり気のあるぬかるみだ。そんな泥土の中を、僕はひどい苦労をしながら歩いていた。前にもうしろにも何も見えなかった。ただどこまでもその暗い色をしたぬかるみが続いているだけだった。

    時さえもがそんな僕の歩みにあわせてたどたどしく流れた。まわりの人間はとっくに先の方まで進んでいて、僕と僕の時間だけがぬかるみの中をぐずぐずと這いまわっていた。僕のまわりで世界は大きく変ろうとしていた。ジョンコルトレーンやら誰やら彼やら、いろんな人が死んだ。人々は変革を叫び、変革はすぐそこの角までやってきているように見えた。でもそんな出来事は全て何もかも実体のない無意味な背景画にすぎなかった。僕は殆んど顔も上げずに、一日一日と日々を送っていくだけだった。僕の目に映るのは無限につづくぬかるみだけだった。左足を前におろし、左足を上げ、そして右足をあげた。自分がどこにいるのかも定かではなかった。正しい方向に進んでいるという確信もなかった。ただどこかに行かないわけにはいかないから、一歩また一歩と足を運んでいるだけだった。

    僕は二十歳になり、秋は冬へと変化していったが、僕の生活には変化らしい変化はなかった。僕は何の感興もなく大学に通い、週に三日アルバイトをし、時折グレートギャツピイを読みかえし、日曜日が来ると洗濯をして、直子に長い手紙を書いた。ときどき緑と会って食事をしたり、動物園に行ったり、映画を見たりした。小林書店を売却する話はうまく進み、彼女と彼女の姉は地下鉄の茗荷谷のあたりに2dkのアパートを借りて二人で住むことになった。お姉さんが結婚したらそこを出てどこかにアパートを借りるのだ、と緑は言った。僕は一度そこに呼ばれて昼ごはんを食べさせてもらったが、陽あたりの良い綺麗なアパートで、緑も小林書店にいるときよりはそこでの生活の方がずっと楽しそうだった。

    永沢さんは何度か遊びに行こうと僕を誘ったが、僕はそのたびに用事があるからと言って断った。僕はただ面倒臭かったのだ。もちろん女の子と寝たくないわけではない。ただ夜の町で酒を飲んで、適当な女の子を探して、話をして、ホテルに行ってという過程を思うと僕はいささかうんざりした。そしてそんなことを延々とつづけていてうんざりすることも飽きることもない永沢さんという男にあらためて畏敬の念を覚えた。ハツミさんに言われたせいもあるかもしれないけれど、名前も知らないつまらない女の子と寝るよりは直子のことを思い出している方が僕は幸せな気持になれた。草原のまん中で僕を射精へと導いてくれた直子の指の感触は僕の中に何よりも鮮明に残っていた。

    僕は十二月の始めに直子に手紙を書いて、冬休みにそちらに会いに行ってかまわないだろうかと訪ねた。レイコさんが返事を書いてきた。来てくれるのはすごく嬉しいし楽しみにしている、と手紙にはあった。直子は今あまりうまく手紙が書けないので私がかわりに書いています。でもとくに彼女の具合がわるいというのでもないからあまり心配しないように。波のようなものがあるだけです。

    大学が休みに入ると僕は荷物をリュックに詰め、雪靴をはいて京都まで出かけた。あの奇妙な医者が言うように雪に包まれた山の風景は素晴らしく美しいものだった。僕は前と同じように直子とレイコさんの部屋に二泊し、前とだいたい同じような三日間を過ごした。日が暮れるとレイコさんがギターを弾き、我々は三人で話をした。昼間のピクニックのかわりに我々は三人でクロスカントリースキーをした。スキーをはいて一時間も山の中を歩いていると息が切れて汗だくになった。暇な時間にはみんなが雪かきをするのを手伝ったりもした。宮田というあの奇妙な医者はまた我々の夕食のテーブ

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