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    されることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた<僕自身の一部>であったのだ。そしてそれに気づいたとき、僕は殆んど泣きだしてしまいそうな哀しみを覚えた。彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてもでも彼女を救うべきだったのだ。

    でも永沢さんにも僕にも彼女を救うことはできなかった。ハツミさんは――多くの僕の知りあいがそうしたように――人生のある段階が来ると、ふと思いついたみたいに自らの生命を絶った。彼女は永沢さんがドイツに行ってしまった二年後に他の男と結婚し、その二年後に剃刀で手首を切った。

    彼女の死を僕に知らせてくれたのはもちろん永沢さんだった。彼はボンから僕に手紙を書いてきた。「ハツミの死によって何かが消えてしまったし、それはたまらなく哀しく辛いことだ。この僕にとってさえも」僕はその手紙を破り捨て、もう二度と彼には手紙を書かなかった。

    *

    我々は小さなバーに入って、何杯かずつ酒を飲んだ。僕もハツミさんも殆んど口をきかなかった。僕と彼女はまるで倦怠期の夫婦みたいに向いあわせに座って黙って酒を飲み、ピーナッツをかじった。そのうちに店が混みあってきたので、我々は外を少し散歩することにした。ハツミさんは自分が勘定を払うと言ったが、僕は自分が誘ったのだからと言って払った。

    外に出ると夜の空気はずいぶん冷ややかになっていた。ハツミさんは淡いグレーのカーディガンを羽織った。そしてあいかわらず黙って僕の横を歩いていた。どこに行くというあてもなかったけれど、僕はズボンのポケットに両手をつっこんでゆっくりと夜の街を歩いた。まるで直子と歩いていたときみたいだな、と僕はふと思った。

    「ワタナベ君。どこかこのへんでビリヤードできるところ知らない」ハツミさんが突然そう言った。

    「ビリヤード」と僕はびっくりして言った。「ハツミさんがビリヤードやるんですか」

    「ええ、私けっこう上手いのよ。あなたどう」

    「四ツ玉ならやることはやりますよ。あまり上手くはないけれど」

    「じゃ、行きましょう」

    我々は近くでビリヤード屋をみつけて中に入った。路地のつきあたりにある小さな店だった。シックなワンピースを着たハツミさんとネイビーブルーのブレザーコートにレジメンタルタイという格好の僕の組みあわせはビリヤード屋の中ではひどく目立ったが、ハツミさんはそんなことはあまり気にせずにキューを選び、チョークでその先をキュッキュッとこすった。そしてバッグから髪どめを出して額のわきでとめ、玉を撞くときの邪魔にならないようにした。

    我々は四ツ玉のゲームを二回やったが、ハツミさんは自分でも言ったようになかなか腕が良かったし、僕は厚く包帯を巻いていたのであまり上手く玉を撞くことができなかった。それでニゲームとも彼女が圧勝した。

    「上手いですね」と僕は感心して言った。

    「見かけによらず、でしょう」とハツミさんは丁寧に玉の位置を測りながらにっこりとして言った。

    「いったいどこで練習したんですか」

    「私の父方の祖父が昔の遊び人でね、玉撞き台を家に持っていたのよ。それでそこに行くと小さい頃から兄と二人で玉を撞いて遊んでたの。少し大きくなってからは祖父が正式な撞き方を教えてくれたし。良い人だったな。スマートでハンサムでね。もう死んじゃったけれど。昔ニューヨークでディアナダービンにあったことがあるっていうのが自慢だったわね」

    彼女は三回つづけて得点し、四回めで失敗した。僕は辛じて一回得点し、それからやさしいのを撞き損った。

    「包帯してるせいよ」とハツミさんは慰めてくれた。

    「長くやってないせいですよ。もう二年五ヶ月もやってないから」

    「どうしてそんなにはっきり覚えてるの」

    「友だちと玉を撞いたその夜に彼が死んじゃったから、それでよく覚えてるんです」

    「それでそれ以来ビリヤードやらなくなったの」

    「いや、とくにそういうわけではないんです」と僕は少し考えてからそう答えた。「ただなんとなくそれ以来玉撞きをする機会がなかったんです。それだけのことですよ」

    「お友だちはどうして亡くなったの」

    「交通事故です」と僕は言った。

    彼女は何回か玉を撞いた。玉筋を見るときの彼女の目は真剣で、玉を撞くときの力の入れ方は正確だった。彼女はきれいにセットした髪をくるりとうしろに回して金のイヤリングを光らせ、パンプスの位置をきちんと決め、すらりと伸びた美しい指で台のフェルトを押えて玉を撞く様子を見ていると、うす汚いビリヤード場のそこの場所だけが何かしら立派な社交場の一角であるように見えた。彼女と二人きりになるのは初めてだったが、それは僕にとって素敵な体験だった。彼女と一緒にいると僕は人生を一段階上にひっぱりあげられたような気がした。三ゲームを終えたところで――もちろん三ゲームめも彼女が圧勝した――僕の手の傷が少しうずきはじめたので我々はゲームを切りあげることにした。

    「ごめんなさい。ビリヤードなんかに誘うんじゃなかったわね」とハツミさんはとても悪そうに言った。

    「いいんですよ。たいした傷じゃないし、それに楽しかったです、すごく」と僕は言った。

    帰り際にビリヤード場の経営者らしいやせた中年の女がハツミさんに「お姐さん、良い筋してるわね」と言った。「ありがとう」とにっこり笑ってハツミさんは言った。そして彼女がそこの勘定を払った。

    「痛む」と外に出てハツミさんが言った。

    「それほど痛くはないです」と僕は言った。

    「傷口開いちゃったかしら」

    「大丈夫ですよ、たぶん」

    「どうだわ、うちにいらっしゃいよ。傷口見て、包帯とりかえてあげるから」とハツミさんが言った。「うち、ちゃんと包帯も消毒薬もあるし、すぐそこだから」

    そんなに心配するほどのことじゃないし大丈夫だと僕は言ったが、彼女の方は傷口が開いていないかどうかちゃんと調べてみるべきだと言いはった。

    「それとも私と一緒にいるの嫌一刻も早く自分のお部屋に戻りたい」とハツミさんは冗談めかして言った。

    「まさか」と僕は言った。

    「じゃあ遠慮なんかしてないでうちにいらっしゃいよ。歩いてすぐだから」

    ハツミさんのアパートは渋谷から恵比寿に向って十五分くらい歩いたところにあった。豪華とは言えないまでもかなり立派なアパートで、小さなロビーもあればエレベーターもついていた。ハツミさんはその1dkの部屋の台所のテーブルに僕を座らせ、となりの部屋に行って服を着がえてきた。プリンストンユニヴァシティーという文字の入ったヨットパーカーと綿のズボンという格好で、金のイヤリングも消えていた。彼女はどこから救急箱を持って来て、テーブルの上で僕の包帯をほどき、傷口が開いていないことをたしかめてから、一応そこを消毒して、新しい包帯に巻きなおしてくれた。とても手際がよかった。

    「どうしてそんなにいろんなことが上手なんですか」と僕は訊いてみた。

    「昔ボランティアでこういうのやってたことあるのよ。看護婦のまね事のようなもの。そこで覚えたの」とハツミさんは言った。

    包帯を巻き終えると、彼女は冷蔵庫から缶ビールを二本出してきた。彼女が一缶の半分を飲み、僕は一本半飲んだ。そしてハツミさんは僕にクラブの下級生の女の子たちが写った写真を見せてくれた。たしかに何人か可愛い子がいた。

    「もしガールフレンドがほしくなったらいつでも私のところにいらっしゃい。すぐ紹介してあげるから」

    「そうします」

    「でもワタナベ君、あなた私のことをお見合い紹介おばさんみたいだなと思ってるでしょ、正直言って」

    「幾分」と僕は正直に答えて笑った。ハツミさんも笑った。彼女は笑顔がとてもよく似合う人だった。

    「ねえワタナベ君はどう思ってるの私と永沢君のこと」

    「どう思うって、何についてですか」

    「私どうすればいいのかしら、これから」

    「私が何を言っても始まらないでしょう」と僕はよく冷えたビール飲みながら言った。

    「いいわよ、なんでも、思ったとおり言ってみて」

    「僕があなただったら、あの男とは別れます。そして少しまともな考え方をする相手を見つけて幸せに暮らしますよ。だってどう好意的に見てもあの人とつきあって幸せになれるわけがないですよ。あの人は自分が幸せになろうとか他人を幸せにしようとか、そんな風に考えて生きている人じゃないんだもの。一緒にいたら神経がおかしくなっちゃいますよ。僕から見ればハツミさんがあの人と三年も付き合ってるというのが既に奇跡ですよ。もちろん僕だって僕なりにあの人のこと好きだし、面白い人だし、立派なところも沢山あると思いますよ。僕なんかの及びもつかないような能力と強さを持ってるし。でもね、あの人の物の考え方とか生き方はまともじゃないです。あの人と話をしていると、時々自分が同じところを堂々めぐりしているような気分になることがあるんです。彼の方は同じプロセスでどんどん上に進んで行ってるのに、僕の方はずっと堂々めぐりしてるんです。そしてすごく空しくなるんです。要するにシステムそのものが違うんです。僕の言ってることわかりますか」

    「よくわかるわ」とハツミさん言って、冷蔵庫から新しいビールを出してくれた。

    「それにあの人、外務省に入って一年の国内研修が終ったら当分国外に行っちゃうわけでしょうハツミさんはどうするんですかずっと待ってるんですかあの人、誰とも結婚する気なんかありませんよ」

    「それもわかってるのよ」

    「じゃあ僕が言うべきことは何もありませんよ、これ以上」

    「うん」とハツミさんは言った。

    僕はグラスにゆっくりとビールを注いで飲んだ。

    「さっきハツミさんとビリヤードやっててふと思ったんです」と僕は言った。「つまりね、僕には兄弟がいなくってずっと一人で育ってきたけれど、それで淋しいとか兄弟が欲しいと思ったことはなかったんです。一人でいいやと思ってたんです。でもハツミさんとさっきビリヤードやってて、僕にもあなたみたいなお姉さんがいたらよかったなと突然思ったんです。スマートでシックで、ミッドナイトブルーのワンピースと金のイヤリングがよく似合って、ビリヤードが上手なお姉さんがね」

    ハツミさんは嬉しそうに笑って僕の顔を見た。「少なくともこの一年くらいのあいだに耳にしたいろんな科白の中では今のあなたのが最高に嬉しかったわ。本当よ」

    「だから僕としてもハツミさんに幸せになってもらいたいんです」と僕はちょっと赤くなって言った。「でも不思議ですね。あなたみたいな人なら誰とだって幸せになれそうに見えるのに、どうしてまたよりによって永沢さんみたいな人とくっついちゃうんだろう」

    「そういうのってたぶんどうしようもないことなのよ。自分ではどうしようもないことなのよ。永沢君に言わせれば、そんなこと君の責任だ。俺は知らんってことになるでしょうけれどね」

    「そういうでしょうね」と僕は同意した。

    「でもね、ワタナベ君、私はそんなに頭の良い女じゃないのよ。私はどっちかっていうと馬鹿で古風な女なの。システムとか責任とか、そんなことどうだっていいの。結婚して、好きな人に毎晩抱かれて、子供を産めばそれでいいのよ。それだけなの。私が求めているのはそれだけなのよ」

    「彼が求めているのはそれとは全然別のものですよ」

    「でも人は変るわ。そうでしょう」とハツミさんは言った。

    「社会に出て世間の荒波に打たれ、挫折し、大人になりということ」

    「そう。それに長く私と離れることによって、私に対する感情も変ってくるかもしれないでしょう」

    「それは普通の人間の話です」と僕は言った。「普通の人間だったらそういうのもあるでしょうね。でもあの人は別です。あの人は我々の想像を越えて意志の強い人だし、その上毎日毎日それを補強してるんです。そして何かに打たれればもっと強くなろうとする人なんです。他人にうしろを見せるくらいならナメクジだって食べちゃうような人です。そんな人間にあなたはいったい何を期待するんですか」

    「でもね、ワタナベ君。今の私には待つしかないのよ」とハツミさんはテーブルに頬杖をついて言った。

    「そんなに永沢さんのこと好きなんですか」

    「好きよ」と彼女は即座に答えた。

    「やれやれ」と僕は言ってため息をつき、ビールの残りを飲み干した。「それくらい確信を持って誰かを愛するというのはきっと素晴らしいことなんでしょうね」

    「私はただ馬鹿で古風なのよ」とハツミさんは言った。「ビールもっと飲む」

    「いや、もう結構です。そろそろ帰ります。包帯とビールをどうもありがとう」

    僕が立ち上がって戸口で靴をはいていると、電話のベルが鳴りはじめた。ハツミさんは僕を見て電話を見て、それからまた僕を見た。「おやすみなさい」と言って僕はドアを開けて外に出た。ドアをそっと閉めるときにハツミさんが受話器をとっている姿がちらりと見えた。それが僕の見た彼女の最後の姿だった。

    寮に戻ったのは十一時半だった。僕はそのまますぐ永沢さんの部屋に行ってドアをノックした。そして十回くらいノックしてから今日は土曜日の夜だったことを思いだした。土曜日の夜は永沢さんは親戚の家に泊まるという名目で毎週外泊許可をとっているのだ。

    僕は部屋に戻ってネクタイを外し、上着とズボンをハンガーにかけてパジャマに着がえ、歯を磨いた。そしてやれやれ明日はまた日曜日かと思った。まるで四日に一回くらいのペースで日曜日がやってきているような気がした。そしてあと二回土曜日が来たら僕は二十歳になる。僕はベッドに寝転んで壁にかかったカレンダーを眺め、暗い気持になった。

    *

    日曜日の朝、僕はいつものように机に向って直子への手紙を書いた。大きなカップでコーヒーを飲み、マイルスディヴィスの古いレコードを聴きながら、長い手紙を書いた。窓の外には細い雨が降っていて、部屋の中は水族館みたいにひやりとしていた。衣裳箱から出してきたばかりの厚手のセーターには防虫剤の匂いが残っていた。窓ガラスの上の方にはむくむくと太った蠅が一匹とまったまま身動きひとつしなかった。日の丸の旗は風がないせいで元老院議員のトーガの裾みたいにくしゃっとボールに絡みついたままびくりとも動かなかった。どこかから中庭に入りこんできた気弱そうな顔つきのやせた茶色い犬が、花壇の花を片端からくんくんと嗅ぎまわっていた。いったい何の目的で雨の日に犬が花の匂いを嗅いでまわらねばならないのか、僕にはさっぱりわからなかった。

    僕は机に向って手紙を書き、ペンを持った

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